自分に出会った日。
もう8年も前のことになる。
ぼくが経験したあの決して忘れられない
不思議な出来事はたしか2月中旬のことだったと思う。
ぼくは携帯の目覚まし時計に起こされ、
眠い目を擦りながらいつものように
トレーニングウェアに着替えると
まだ静まり返っている月島の町を
白い息を吐く蒸気機関車のように走り始めた。
西仲通り商店街~住吉神社~中央大橋~
南高橋~隅田川沿い~勝ちどき橋~黎明橋~
晴海トリトン~晴月橋~月島第一小学校~
清澄通り~西仲通り商店街。
約5キロのコースを30分かけて走る。
朝の寒さに慣れ身体が温まってきたのは
中央大橋に差し掛かったあたりだった。
そのまま気持ちいい速さで走り、
隅田川テラスに降りると視界が一気に開け、
ぼくはとても新鮮な気持ちになった。
佃大橋の下をくぐってしばらく行くと、
手すりにもたれて川面を眺めている少年に気づいた。
その少年の背後を通り過ぎようとした時に
泣いているような声が耳に入って思わず足を止めた。
そして少年に近づくと「どうしたんだい?」と声をかけた。
少年は泣きはらした目で振り返り、
再び目を川面の方に戻しながら
「あそこ・・・」と言った。
どこかで聞き覚えのあるようなとても気になる声だった。
少年の見つめる先に目をやると、
川面に浮かぶ白いボールが目に入った。
どうやら軟式の野球のボールのようだ。
護岸用のコンクリートの壁を相手に
投球の練習をしていたのだろう。
ちょうど風もなく隅田川の流れも
ピタリと止まったように静かで、
ボールは位置を変えることなく
岸から3メートルくらいのあたりで
プッカリ浮かんでいる。
「ちょっと待ってて。
何か長い棒を探してみるから」
ぼくは少年にそう告げ辺りに目をやると、
ちょうどいい感じの園芸用のアルミの支柱が
花壇に刺さっていたので、
ちょっと拝借してボールをたぐり寄せた。
でもテラスと水面までの高さに差があって
手を伸ばしても拾い上げることはできない。
「何か網のようなものがあればいいんだけど、
悔しいけど諦めるより仕方なさそうだね」
そうぼくが言うと少年は小さな声で
「ありがとう」と呟いた。
「いや、協力できなくてゴメンよ。
キミはまた明日この時間にここにいるかい?」
「うん、たぶん」
「オジサンも軟球を持っているんだ。
男の必需品だよな。
オジサンはもう使うことがなさそうだから
明日の朝、持って来てあげるよ」
「ヒツジュヒン?」
「うん、男なら持っていなくちゃっていうこと。
じゃあまた明日ここで」
そう言い残して再び走り始めたぼくの背中に
向かって少年はまた小さな声で
「ありがとう」と言ったような
気がしたけれどぼくは振り返らなかった。
そして走りながら少年とのやり取りを
なんとなく頭の中で反芻し始めた。
やけに古いデザインのどこか見覚えのある
グリーンのジャケット、
ジャイアンツのマークの入った黒い帽子、
右膝に大きく継ぎ当てされた縦縞のズボン、
左手にはよく使い込まれている
ライトブラウンのグローブ・・・。
今どき継の当てられたズボンなんて珍しい。
いや、珍しさを通り越して懐かしい。
ジャイアンツのマークの入った・・・
グリーンのジャケット・・・。
ぼくは少年と会話したあの場所から
100メートルくらい行ったところで
ハッと”それ”に気づいて足を止めた。
それは紛れもなくぼくが子ども頃に
着ていたものだったのではないか?
いや、そんなはずはない。
たまたま似ているようなものを
着ていただけのことなのだろう。
振り返るともうそこに少年の姿はなかった。
どこかに立ち去ったというより
まるでそのまま消滅してしまったよう。
とても不思議な感覚だった。嬉しいような怖いような、
懐かしさで目が眩むくらい恥ずかしいような・・・。
その不思議な感覚はまた走り始めても
ずっとずっと続いていた。
ぼくはあの頃ピッチャーになりたくて、
よく近所の米軍施設の壁にチョークで
ストライクゾーンの四角を書いて、
何時間も投球練習をしていた。
思い通りのコントロールがつかなくて
カーブのキレが悪くて、
もう終わりにしようと思いながら、
気がつくとすっかり陽は落ちていた。
ボールの跡がいくつもついた汚い壁に
白いチョークのストライクゾーンが浮かんで見えた。
あの時からどのくらい時が経ったのだろう。
ぼくは小学校を卒業すると同時に
大好きだった野球をやめてしまった。
翌朝は目覚ましが鳴るより早く目覚め、
前日の出来事を思い返しながら
トレーニングウェアに着替え、
収納棚にしまってある軟球を取り出して、
いつもより早くエレベータで下に降りた。
このまま出発すると早すぎると思って、
静まり返ったエレベータホールで
入念なストレッチを行い、
携帯電話で時刻を確認しながら
いつものコースを走り始めた。
前日とは違ってその日の朝の空は
厚い雲に覆われていたけれど、
それほど寒さは感じなかった。
走るリズムがうまくつかめない。
吸って吸って吐いて吐いて。
呼吸に神経を集中しながらいつもより
意識的に腕の振りを大きくしていくと、
次第に身体が一定のリズムを刻み始める。
吸って吸って吐いて吐いて。
南高橋を渡って隅田川テラスに出ると
自然にストライドが広くなってペースが上がった。
あの少年は昨日の場所にいるだろうか。
たぶん落としたボールはどこかに
流れて行ってしまったに違いない。
やがて佃大橋の下まで来たけれど
少年は見当たらなかった。
ぼくは今朝目が覚めた時からなんとなく
あの少年にはもう会えないかもと感じていた。
少年と会話を交わした昨日の場所で
しばらく足を止めてみた。
当たり前のことだけれど川面を探してみても
ボールはもうどこにも見当たらなかった。
植え込みから拝借したアルミの支柱は
元の位置に納まっている。
ぼくは左手に握っているボールを
右手に持ち替え壁に向かって投げてみた。
もう一度、そしてもう一度・・・。
ちょうど築地方面から曳航船が
テラスの静寂を破るようなエンジン音を
立ててぼくの後ろを横切って行く。
ぼくがしばらくボールを壁に向かって
投げ続けているとふと昨日の少年の
「ありがとう」という声が
聞こえたような気がした。
けれども振り向いてももちろん少年はいない。
気がつくとぼくは壁からバウンドしながら
戻ってくるボールを後逸し、
そのまま隅田川に落としてしまった。
まるで夢を見ているような
誰かに柔らかく騙されているような
気持ちになって川面に浮かぶボールを見た。
ボールは突然冷たい水の中に
転がり落ちた驚きで固まってしまったように
位置を変えずにプカプカ浮いていた。
ふと無意識に植え込みの支柱に目をやる。
なんの変化もない。
ぼくはその不思議な場所からようやく離れ
昨日と同じように再び走り始めた。
でもぼくの耳はまだ少年の声を探していた。
残念な気持ちで心がいっぱいになるのを
感じながらぼくは隅田川テラスを走る。
勝どき橋を渡る辺りでは
魚河岸で働く多くの人たちとすれ違った。
誰も忙しそうに通り過ぎていく。
寒さも苦しさもまるで感じられなかった。
このままどこまでも走って行ける。
ぼくはたぶんあの頃の自分に出会ったのだ。
本当はもう一度少年に会いたかった。
あの場所で、あの時間に。
だからこそぼくはボールを持って走った。
少年との約束を信じて。
あれからしばらくの間あの場所を通るたびに
少年を探してみたけれど
ついに少年と会うことはなかった。
でももしかしたら少年はあの日、
再びあの場所にいたのかも知れない。
ぼくの落としたボールと少年が落としたボールは、
広い海のどこかで時空を超えて出会うだろうか。
そんなことを考えていると8年を経た今でも
ぼくは不思議な幸福感に包まれるのだ。