バーは鎹(かすがい)。

村に1軒しかないバー「宿り木」で出会った
酒好きのキコリとマタギが、
バードカービングという共通する趣味がきっかけで意気投合。
以来ふたりは毎日同じ時刻に店を訪れ、
閉店まで杯を傾けながら楽しそうに鳥の話をする。
やがてふたりは話だけではなくデッサンを持参したり、
大事そうに作品を抱え背中で
店のドアを押しながらやって来たりする。
ふたりが話に夢中になっているとときどきマスターから、
「おや?コノハズクが飲み干しちゃったのかな?
グラスが空のようですけど」などと
小賢しい注文の催促を受ける。
ふたりはよく笑い、喋り、そして熱い議論を交わした。
きっとレディ・ガガが突然この店を訪れても、
ふたりはおかまいなしに語り合い続けるだろう。

そんなある日、ふたりはちょっとした意見の食い違いから
大喧嘩へと発展してしまう。
店の中にいた他の客たちが
その声に驚いて一斉にそちらを振り向く。
「いきなり、どうなさいました?」と
心配そうに気遣うマスターの言葉も耳に入らないらしく、
その剣幕は衰えるどころか、ますます激しくなっていく。
「分からず屋!もうお前なんかと飲まん!」とマタギ。
「上等じゃねぇか、オレだって願い下げだね。
金輪際お前とは口もきかねぇ」とキコリ。
そう啖呵を切って別れたふたりだけれど、
日が経つに連れ、おたがい後悔の気持ちが強くなっていく。

2週間ほど過ぎたある夕方、
マタギは「宿り木」へと足を向ける。
ドアを開け店の中を見渡しても客はいない。
マタギはガッカリしたような安堵したような
複雑な思いでカウンターの席に着く。
事情を知っているマスターはキコリのことは口に出さず、
黙っていつものスピリッツをマタギの前に置き、
ターンテーブルにLPをセットしてボタンを押すと、
店内に岡晴夫の「逢いたかったぜ」が流れ始めた。
マタギは口に含んだスピリッツを思わず吹き出しそうになった。
「冗談キツイぜマスター。せっかくの酒が
口から飛び出しそうになったじゃねぇか」
「沈んだ顔をしたお客さんには笑顔が必要かと思いましてね。
それでは仕切り直しということで」といって
再びターンテーブルにLPをセットしてボタンを押すと
店内にデューク・エリントン&ジョン・コルトレーンの
「In a sentimental mood」が流れ始めた。
マタギは時計に目をやる。18時37分。
ちょうどその時、マタギはドアが開く音を背中で聞いた。
少しばかり心臓の鼓動が激しくなった。
でも残念ながら入って来たのはキコリではなく、
川向こうのウシカイとその連れの女だった。
彼らはテーブルにつくなり、
まるでコルトレーンのテナーサックスを
マドラーでかき混ぜるような無神経な声で談笑を始めた。
その後何回かドアが開き何人もの客がやって来たけれど、
キコリが入って来るような気配はなかった。
店の中は客たちの話し声とピンボールマシンの電子音であふれ、
もうドアが開く音も聞き取れないような状況になっていた。
「20時21分か。この分じゃ、キコリは来ねえな」そう思った時、
ポンと後ろから肩を軽く叩かれた。
振り向くとキコリが笑顔で立っている。
「この間は悪かった。やっぱり一日の締めくくりは、
ここでお前さんとカービングの話を
しなきゃってことに気づいたんだ」キコリが言うと
マタギも「いやぁ、俺の方こそ謝らなくちゃなんねえ。
許してくれ、つまらん意地を張っちまって」
と言ってバツが悪そうに笑った。
「だけどこの店のおかげで俺たちはまた会えた。
子は鎹って言うけれど、俺たちにとっちゃあ
差し詰めこのバーが鎹ってえとこだなぁ」
キコリがマスターの方を向いて言うと、
「これから先、おふたりがまた喧嘩をして、
何日もご無沙汰を決め込まれると店の売上に響きますから、
早めにしょっぴきに伺うかも知れませんよ。
鎹には針先が2カ所ありますから」

キコリとマタギの話を、あるいは落語の”子別れ”を
持ち出すまでもなく、あらゆる人間関係に
「鎹」にあたるものは存在する。
だからご心配無用、長いお付き合いをお望みなら、
我慢したり折れたりせずどんどん喧嘩をすればいい。
そして自分に非がある、あるいはないと思っても、
会いたいと思ったらタイミングを見計らって
笑顔を見せる勇気もお忘れなく。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

gooblog

前の記事

未来が崩壊の途にある。
gooblog

次の記事

ただの夢。