一本勝ち。
雲がゆっくり空をゆく
船もゆっくり海をゆく
ゆっくりをのんびり眺めていると
徐々に肩の力が抜けていく
ゆっくりはやさしい
ゆっくりはやわらかい
そしてゆっくりは私の味方
「どうしたんだい、お前さん。
とうとう春の暖かさにアタマ
やられちまったのかい?」
「おぅ、ポジティブシンキングな
もうひとりのオレか。
おめえってヤツはいつも急に現れやがる。
で、今日は何の用だい」
「お前さん、さっきから
雲だの船だのゆっくりだの、
いったい何の真似をしてんだよぅ」
「真似なんかじゃねぇよ。
オレの心に感じたままのことを
言葉にしてみたくなったまでよぅ。
どうでぃ、なかなかのもんだろ」
「え?するとなにかい、
これ、お前さんが心に感じたことなのかい?」
「そうよ。オラぁ、たったいまから
吟遊詩人になろうって決めたところでぃ」
「ギンユウシジン?ギンユウシジンって
ウクレレ持って歌って
笑いを取る芸人のことかい?」
「バカヤロー!吟遊詩人がウクレレ持つか?
オレは牧伸二ジュニアじゃねぇつーの。
吟遊詩人が持っている楽器は
リュートっていってなぁ、
そりゃあ高価な楽器よ。
こいつを背中に背負って諸国を旅しながら
心のひだを歌い上げるのよ。
すると行く先々でおらぁ女からモテモテ。
そのうちうっかり女の名前を間違えて
脇腹をつねられねぇように
気をつけなくちゃならなくなるかもしれねぇ」
「お前さんの妄想は糸が切れた凧みたいに
どこまでも飛んでいくねぇ。
で、そのリュートっていくらするんだい」
「ちょっくらネットで調べてみるとよぅ、
30万は下らねぇらしい」
「そ、そんな大金どうやってお前さん、
工面するんだい」
「そこでだ。なぁ、ものは相談だけどよぅ。
おめえ、オレに投資してみる気はねぇか?」
「いいかい?よーくお聞きよ。
何度も言うようにあたしゃ
ポジティブシンキングとはいえ、
もうひとりのお前さんだよ。
お前さんが文無しならあたしだって
文無しに決まってるじゃないのさ。
それにさぁ、そのリュートって楽器、
かりに手に入ったとしてだよ、
いったいどうやって弾くつもりだい」
「そりゃあおめぇ、
通信教育でバッチリ練習するのさ」
「へー、吟遊詩人が通信教育ねぇ。
なんかダサいねぇ。ショボいねぇ。
まあいいよ。じゃあついでにもうひとつ聞くよ、
いつになったらそいつが弾けるようになるんだい」
「そ、そりゃーよぅ、送られてきた課題を
ひとつひとつクリアしていくんでぃ。
焦ったってしょうがねぇじゃねぇか。
雲や船みてぇにゆっくりやるんだ」
「ゆっくりってお前さん、
ただでさえジジイなのに
そいつが弾けるようになる頃には
吟遊詩人なんざ通り越して
徘徊詩人になっちまうよ」
「なにをーっ!だれが徘徊詩人でぃ。
あれー?おめぇ、いってぇいつから
そんなネガティブなことを
言うようになっちまったんだ?」
「えっ?あらイヤだよぅ、あたしったら。
お前さんに一本取られたねぇ。参ったよぅ」
ってなわけで、今朝はもうひとりのオレから
一本取ったところで朝ご飯の支度でもしてみますか。