読んで考えたこと。

もしも老いてなお生気十分で、
明日のことを、来月のことを、
来年のことを、将来のことをと、
若い頃のように新しい夢や希望に満ち
それを懸命に追いかけているとしたら、
私たちは訪れる死というものに対して
ひどく臆病になるのではないだろうか。

認知機能の低下という現象は、
人間の進化の過程で作り出された
自らの老いや死への恐怖を和らげる
緩和薬のような働きがあるのではないか、
あるいは死をやさしく包むオブラートの
ような役目をしているのではないか、と、
そんな気がふとしたのです。
認知症による様々な行動の変容は
時に人間の尊厳をひどく傷つけるように思える。
だけどよくよく考えてみたら、
長いあいだ傷ついたり暗澹とした気持ちに
なるのは、本人というよりはむしろ家族や
周囲の人たちなのではないだろうか。
その人のことを知っていればいるほど
その変容ぶりに慌てたりたじろいだりする。
なんとか治療する手立てはないものかと。
たしかに普段から脳を鍛えることや
薬を服用することである程度は
症状を緩和させたり遅らせることはできると思う。
でもそうした努力を続けても
それは永久に維持できるわけではない。
85〜89歳は41.4%、90〜94歳は61%、
95歳以上は79.5%の人が何らかの
認知機能障害を患うらしいです。
症状の軽重の差があるにしろ
避けて通ることはとても難しい。
たぶん誰だって家族や周囲の人たちに
迷惑をかけたいとは思っていないはず。
にも関わらず認知症を患うというのは、
本人の意思の届かないところで少しずつ、
時として急激に進行してしまうからなのでしょう。
それはどうしようもないこと。
だけど周囲が温かい眼差しで
寄り添ってあげられれば
すべてが変わる気がするのです。

私の両親はもうすでにいません。
父は中程度の、母はわりと軽度の
認知症を患いましたが
私の付き添った介護期間はどちらも
2年程度の短いものでした。
2歳年上の姉と共同で面倒をみたので
それほど大変ではありませんでした。
(姉は私の知らないところで苦労したかも)
老いや死や介護の本当の苦労を
分かっていない人間が分かったふうな
気になるなと言われればそれまでです。
だけど思っていることは今のうちに
素直に書いて残しておきたいと思いました。

先日読み終えた”おやじはニーチェ”は
認知機能障害を患った80歳代のお父さんと
お父さんを介護する息子さんとの生活が
息子さんの視点で描かれた手記。
話の中に著名な哲学者たちの言葉が出てきて
私にとってはかなり難解な講釈が
されている部分もありましたが
登場するお父さんの明るいキャラと
お父さんの不思議な受け答えを深読みして
独自の哲学的考察で理解し
切り抜けていく著者の機転がとても痛快。
介護という重たくなりがちなテーマを
カラッとした視点で捉え
お父さんにやさしく寄り添う著者の眼差しに
感動する箇所、教えられる箇所が多々ありました。
読んで良かったと思える一冊でした。

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