高価な布を買う夢。
ぼくは山の麓に続く長く狭い一本道を
疲れた足取りで黙々と歩いている。
道のはるか先に冠雪した高い山が見える。
たぶんぼくはその山の麓に住む友人に
会いに行こうとしているのだ。
しばらく進むと行く手を阻むような
高く聳え立つ真っ青な壁が現れた。
壁の真ん中には扉らしきものがある。
いったい誰がなんのために設置したのか。
いずれにしろ来た道を引き返して
あの険しく寂しい迂回路を行くなんて真っ平。
だいいちそんな体力はもう残っていない。
ぼくは躊躇することも考えることさえなく
扉に設えられたノブに手を伸ばした。
鍵が掛かっていたら厄介だなと思ったけど
扉はわずかに軋むような音を立てただけで
手前側にそっと開いた。
扉の向こうは道が続いているわけではなく
どうやら部屋になっているみたいだった。
中は漆黒の闇のように暗く目を凝らしても
どうなっているのかさっぱりわからない。
床に障害物でもあったら危ないから
とりあえず電気を点けてみようと
壁に指を這わせ照明のスイッチを探す。
だけどいくら探してもそれらしい
スイッチはありそうもなかった。
暗闇に目が慣れるのを待つしかないか。
そう思って動かずにその場に立っていたら
どこからか風が吹き込んできて
部屋らしきものの奥でわずかに光が漏れた。
そのおかげで部屋全体の様子が掴めた。
部屋は全体が鮮やかな朱色に塗られていて
前方後円墳のような形をしている。
奥側が円形状のスペースで
その湾曲した壁の中央に窓があるらしく
そこに取り付けられたブラインドが
わずかに風に揺れて漏れた光だった。
そしてその円形状のスペースの中央には
コンパクトな丸テーブルが置かれている。
ブラインドもそのテーブルも扉の内側も
全く同じ朱色に統一されていた。
風がブラインドを揺らしているうちに
窓を開けようと足早に窓まで行き、
ブラインドを上げ窓を全開にした。
窓の外は渺茫たる紺碧の海が広がり
空は吸い込まれてしまいそうな
深い瑠璃紺に支配されていた。
なんて開放的な美しい光景だろう、
ぼくはポケットからスマホを取り出して
パノラマモードで写真を撮った。
撮り終わって窓から顔を出し下を覗くと
驚いたことに陸地がなかった。
どうやらこの部屋は直接海から
立ち上がっているようだった。
岬の突端にでも建てられているのだろうか。
でも改めて考えてみたらおかしなことだ。
ぼくが歩いて来た狭い一本道の先には
たしか冠雪した山が見通せていた。
なのにこの窓からは海が見える。
こんなことってあるのだろうか。
奇妙だなと思いながら部屋の中を
もっとよく見てみようと
振り返ろうとした時のことだ。
「奪いに来たのね?」
突然部屋のどこからか
女性の鋭い声が飛んできた。
警戒心に満ちたかなり尖った声だ。
ぼくの耳に届いていないと思ったのか
女性の声はもう一度繰り返した。
「奪いに来たんでしょ!」
驚いて振り向いても誰もいない。
「誰?どなたかいらっしゃるんですか?」
ぼくは部屋の空間に向かって問いかける。
「絶対に渡すもんですか!
おとなしくここから出ていきなさいよ」
ぼくはその声に恐怖を感じ姿勢を低くして
身構えながら部屋の様子をうかがった。
「私の声、聞こえているでしょう?」
どこにいるんだろう・・・見えない。
「あのぉ、ぼくはあなたの言うなにかを
奪いに来たわけじゃありません。
間違えてここに入ってしまったみたい。
山の麓に住む友だちに会うために
歩いていたら途中に青い壁が現れて
それを潜り抜けて先に行こうとしただけ。
ここが部屋になってるなんて知りませんでした。
許可なく入ったのだとしたら悪かったです。
軽率に入ってしまい、本当にごめんなさい」
そう言ってぼくは部屋の真ん中辺りに
向かって深々と頭を下げた。
「写真を撮ったでしょ」
「あっ、はい。窓からの眺めが開放感があって
とても素晴らしいと思ったから、つい。
撮っちゃいけなかったんだったら
残念だけど今すぐここで消去します。
これでいいですか?」
怯えながら消去するところを見せようと
ぼくは液晶面を外に向けた。
「あなた、それじゃ本当に私の分身ちゃんを
奪いに来たわけではなかったの?」
「はぁ?ブンシンチャン?なんですか、それ」
その質問を女性の声は無視した。
「質問を変えるわ。あなたって信用できる人?」
「さあ、これまで誰かから本気で裏切り者って
言われたことはたぶん一度もない、
ってそんな程度だと思います」
「たぶん?」
「そう。ぼくはとても忘れっぽいから」
「あなた、いま自分がどこにいるか分かる?」
「あなたの朱色の部屋」
「違うわ。ここは部屋ではないの。私の内側よ」
「あなたの内側?どういうことですか?」
この質問にも取り合わず女性の声は続く。
「丸テーブルの上をごらんなさいよ」
ぼくは言われるまま目の前の
テーブルに目を落としてよく見ると
真ん中に小さな蓋があってその蓋に
取っ手みたいなものが取り付けてある。
「開けてみなさいよ」
「その中にあなたのブンシンチャンが
入っているんですか?」
「そうよ」
「いいです、やめておきます。
あなたにとって大事なものなんでしょ?
ぼくはおとなしくこのまま
あの扉から出て行くことにします」
「私の分身ちゃんを見たくないの?」
女性の声のトーンが変わった。
とても残念そうだ。
「ちょっと見てみたい気もしますけど
やっぱりやめておくことにします」
「あなたを信用してあげているのに?」
「それは光栄なことですけど・・・」
「けど、なに?」
「ここ、部屋じゃなく、
あなたの内側なんですよね?」
「そうよ。あなた、怖いの」
「怖いです。誰かの内側にいるなんて、
それだけでじゅうぶん怖いです。
蓋を開けたら魂みたいなものが出てきて
憑依でもされたらパニックになるかも知れません」
「ばっかじゃないの!いいから開けなさい!」
その声の迫力に気圧されてぼくが
恐る恐る慎重に取っ手をつかんで開けると
中にはテニスボールくらいの大きさの
水晶玉が入っていた。
それを両手でそっと持ち上げてみる。
「これが、そのぅ、ブンシンチャン?」
「きれいでしょ。欲しくなった?」
「ええ、まあ」
「いまあなたが手にしている私の分身ちゃん、
つまり私のアイデンティティを
ときどき取り出して磨いているの」
「磨くとどうなるんでしょうか」
「自分がより自分らしくなるわ。
素晴らしいことだと思わない?」
「じゃあ、もしぼくがこれを持って
ここから逃げちゃったら、どうなります?」
「私はアイデンティティを一時的に喪失し、
あなたの内側に私のアイデンティティが入るの。
「えっ、それじゃぼくの内側にも水晶玉があって
それが2個になるってことですか?」
「そうよ。でもあなたの内側にあるのは
水晶玉じゃなくてジャガイモみたいな形の
ガラス玉かも知れないわね」
「どうしてぼくのブンシンチャンが
ジャガイモなんですか?」
「だってあなた、磨いてないでしょ?
自分のアイデンティティを」
「だってそれはそんなものがぼくの内側に
あるだなんてまったく知らなかったから」
「でも安心して。いまからだって
頑張って磨けばツルピカになって
とても魅力あふれる水晶玉に変身できるから」
「どうやって磨けばいいんでしょうか。
できることならぼくも磨いてみたいです」
「ウェスとか靴磨きのブラシとか
ナイロンタワシとかじゃきれいに磨けないの。
専用のスペシャルナイーブクロス®️を使えば
たちどころに輝くようになるわよ」
「そ、そ、それ、どこで手に入ります?」
ぼくがそう尋ねると少し間があって扉が開き
魔女のコスプレ衣装を纏った女性が現れた。
「あぁ、ちょうどよかった!
先週まとめて100枚買っておいたの。
1枚5万円とちょっとお高いけど
お試しで30枚くらいならお安くお分けできるわ。
あなたって、なんて運がいいんでしょう」
「ヒエ〜ッ!」
「ウィッチペイでお支払いを済ませたら
顔につけてるVRゴーグル、忘れずに外して出ていってね」
※間違えて買ってしまったユニクロの
サイズオーバーのおしゃれなスリッパ。
履き心地はいいんですよ。履き心地は。