散歩しながら考えたこと。

人間は絶えず変化している。
生まれた時から死を迎えるまで
一瞬たりとも留まることを知らない。
実感は伴わないかも知れないけれど
昨日の自分と今日の自分は違うし、
おそらく明日の自分も今日の自分とは違う。

変化は自分の内側でも起こっているし
自分の外側でも起こっている。
内側の変化が外側へと波及することもあるし
外側の変化が内側へと伝播することもある。
絶えず内側と外側が刺激し合って
新しく複合的な変化を生んでいるのだろう。
だから面白いとも言えるし
また、変わってゆくものに対して
哀れさや寂しさを感じたりもする。

不変のものなどこの世に存在しない、
そうと知りながらぼくたちは
永遠に変わらないものを求めてしまう。
変わってゆくという自然の摂理と
変わるなという人間の願いとの相剋。
人間の願いは人間を取り巻く世界とともに
激しく流れる川の水の中で翻弄される。
そして息することさえままならない。
その翻弄こそが変化の源となるのだろうか。

ぼくたちはどこに向かっているのか、
そして・・・いったいどこに辿り着くのか。
人間はその長い川の要所要所に
標(しるべ)を置いていった。
少年期、青年期、壮年期、熟年期、老年期・・・
人によって標に到達する時期はさまざま。
川の水の流れる速さが違うからだ。
しかも流れだって一定していないから
一般論や比較論なるものなど役に立たない。
比較することで人は不幸になるという。
幸福は自らの内側に灯る火だと思った。

私はどんな川の中を流れているのだろう。
そこでどんな出会いがあり別れがあるのか。
ボブ・ディランはかつてマリブでの
インタビューでこんなことを言っている。

“同じリズムで心臓が打っている人と
寝たことがあるかい?それが真の愛だ。
その人には、1ヵ月に1度、1年に1度、
あるいは一生に1度しか会えないかも知れない。
でももし会えたら、君の人生は
リズムに乗ると保証するよ。
それだけが必要なものだ”

ぼくたちはそうした出会いを求めて、
あるいはそうした関係の中で
生きているのかも知れない。
真実の愛は最大の変化を生み出す。
そういうことを言おうとしていたのだろう。

先日読み終えた村上由香の小説の中には
こんなセリフが出てくる。

”哲学なんかの考え方では、
『永遠なるもの』と対比されるのは、
『目に見えるもの』だとされているの。
ということは、もし本当にその二つが
真逆のものであるとするなら、
『永遠なるもの』というのは、
すなわち『見えざるもの』を言うんだって
ことにならない?”

サン・テグジュペリも”星の王子様”の中で
”ほんとうに大切なものは目に見えない”
と言っている。

形あるものはいずれ変化の中で歪み、
色褪せ、朽ちてゆくけど
形なきものは永遠の中で生き続ける。
激流の川の中で変化し続けながら
形なきものの存在をどれほど強く
信じ続けられるか。
変化を感じられなくなった時に思い出すべき
テグジュペリの名言をもうひとつ。

”一滴の水がどうして己を大河と知るであろうか?
だが大河は流れているのだ。
樹木を作る細胞のひとつひとつが、
どうして己を樹木と知るであろうか?
だが、樹木は伸び広がっているのだ!”

※写真の本は”ダンス・ウィズ・ドラゴン”
うまく書けたとは思わないけれど
この本を読まなかったら
このエッセイは書けなかったと思う。

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