抜け道。
年末から年始にかけて私は大学のクラスメイトと
ふたりでスキーに出かけていた。
確か穂高のスキー場からの帰りだったと記憶している。
その日、中央自動車道は都心へ戻るクルマで大渋滞していた。
それを予想して昼前に出発したにもかかわらず、
もうすでに甲府南インター付近からノロノロ状態で
笹子トンネルを通過する辺りで夜の9時を過ぎていた。
このまま中央道に乗っていたらいつ家に帰れるかわからない。
そこで私たちは中央道をあきらめ
大月インターで降りて一般道を行くことにした。
ところが頼みの綱の20号線もピッタリ止まってしまって前に進まない。
そこで助手席の友人は手元灯をつけて地図を広げ抜け道を探し始めた。
「かなり狭くて遠回りだけど行ってみるか?」
私は遅々としてほとんど進まない運転に嫌気がさしていたので、
友人の提案にふたつ返事で賛成し地図に記された道へハンドルを切った。
10分も走ると民家も減りはじめ、
さらにしばらく走るとその民家もなくなって
街路灯のない真っ暗な細い山道に入っていった。
それでもスムースに走れることに私は満足感を覚えた。
「ちょっとスピードを出しすぎじゃねぇ?
道も細いし周りが見えねぇし、もう少しゆっくり行こうよ」
友人はそう言い私も「わかった」と返事をしたものの、
早く家に帰りたいとの思いから
ついついアクセルを踏み込み気味になる。
山道は予想以上に蛇行しているにもかかわらず
スピードを出しているので当然ブレーキングもきつくなる。
私の横で地図とにらめっこしている友人を
チラッと見てちょっとゾクッとした。
なんだか顔色が悪い。いや、顔色が悪いというより
死んだ人間のように蒼白なのだ。
私は友人がクルマに酔ったのかもしれないと思って
「どうせしばらく一本道なんだろ?
もう少しペースダウンして走るから
しばらく目をつむっていても構わないぜ。
ちょっと顔色が良くないみたいだし」
「そうか。そんなに悪いか、オレの顔色」
そう言ったかと思うとすぐに友人はイビキをかき始めた。
「なんだ、瞬殺だな」そう言って私は半ば呆れたように笑った。
友人が寝入ってからものの5分もしないうちに
道はさらに狭くなってきた。
ちょっと心細いなぁと感じ始めたのはそのあたりからだった。
ハイビームで走っているのだけれど様子がわかるのは前方のみ。
サイドウインドウ越しに景色を見ようにも真っ暗で闇しか見えない。
この時点で私は急に心細さがつのって友人に声をかけた。
「ねぇ、かなり道幅が狭くなってきたけど大丈夫か?」
「・・・・」
友人はそれに答えることなくイビキとともに寝続けている。
相当深く眠っているみたいだった。
私は会話をあきらめ、さらにスピードを落として
慎重に山道をトレースしていった。
”こんなに細い道、もし前からクルマがやってきたらどうするんだろう。
絶対すれ違えないし退避スペースもないじゃない”
そんなことをひとりブツブツつぶやきながら走ると
行く手前方の道路脇の山肌に真っ赤な柱が立っているのが目に入った。
近づくとそれが鳥居であることがわかって一瞬ギョッとした。
山肌にへばりつくように建てられている。
なんでこんなところに鳥居なんかがあるんだろう。
その鳥居は少し道の方に張り出していて
注意深く進まないとドアミラーが接触してしまいそうなほど道も狭い。
私は人が歩くスピードまで落とし充分気をつけながら通り過ぎた。
通り過ぎざま見るとはなしに鳥居の中を覗くと、
なんと人の顔のようなものが見えた気がした。
その瞬間、私は悲鳴を上げそうなほどびっくりした。
通り過ぎてからそれは人の顔ではなく能面のようなものだと思った。
なぜそんなものが鳥居の中に貼り付けてあるんだろう。
この時点で私は入ってはいけない場所に
踏み入ってしまっているんじゃないか、そう直感した。
直感すると同時に全身に寒気が走り息苦しくなってきた。
吸っても吸っても息が肺に入る感覚がない。
呼吸ばかりが激しく荒くなる。
「引き返すか!」突然目を覚ました友人が
怒鳴るような声でいきなりそう言った。
私はその声に驚き慌ててブレーキを踏んで友人の顔を覗き込んだ。
暗くてよくわからないけれど、
友人は目を覚ましたわけじゃなかった。
イビキはかいていないようだけど、
うな垂れていて蒼白の横顔が薄っすら見える。
「おい!ちょっと起きろよ。お願いだ起きてくれ!
やっぱりオレたち大変な場所に入ってきてしまったかも。
もしかしたら道を間違えているかもわからないし」
私はそう言いながら友人の肩を荒々しく揺すった。
友人は目を開けキョトンとした表情で目を開け周りを見る。
「ふわー、よく寝た。少し気分が良くなったみたい。ここはどの辺?」
「まったくわかんねぇ。道が合っているかどうかもわかんない」
「なんだよそれ。オレが寝てからもずっと一本道だっただろ?」
「うん。途中で岐路になる道はなかったはずだ。でも今しがた・・・」
私は薄気味悪い鳥居の話を友人にした。
すると友人は「へぇ、なんか面白そうじゃん。
ちょっと見に行ってみるか」
「冗談はやめろよ!見たけりゃお前ひとりで行って来いよ。
オレはごめんだね。絶対見たくねぇ」
「そうか、じゃあ仕方ない、あきらめるとするか」
「お前、さっきものすごい大きな声で”引き返すか!”って言ってただろ?」
「いや。そんなこと言ったか?オレ」
友人が寝入ってしまった場所から30分は走っている。
引き返すにしても思いつく限りUターンできる場所なんてなかった。
道を間違えているという確証がないならこのまま行ってみるしかない。
意を決して再びアクセルを踏む。
ただし道が登山道のように狭く蛇行しているからスピードは出せない。
「運転、代わろうか?」友人がそう申し出た。
「うん、ありがたいけど、今ここでクルマを停める気になれないよ」
友人は膝に広げてある地図を顔に近づけ
食い入るように見つめながらしばらく考えていた。
「この地図でいくと、たぶんあと少ししたら
県道に出るはずだから、そこで代わろう」
「県道?ホントか?オレ、一刻も早く
この薄気味悪い山道とおさらばしたいよ」
私は真冬だというのに手のひらにかなりの量の汗をかいている。
相変わらず恐怖で全身がこわばってアクセルワークがぎこちない。
それでももう少しの辛抱だと思うと荒い呼吸もいくぶん楽になった。
インパネに組み込まれている時計を見ると11時40分。
極度の緊張が和らいだせいか急に眠気が襲ってきた。
「悪いけどコンソールボックスの中に
ガムが入っていると思うんだ。取ってくれないか」
そう言いながら横を見ると、
どういうわけか友人はまた寝てしまっていた。
「おい、冗談じゃないよ。また寝ちゃったのかよぉ」返事はない。
それと同時に和らいだはずの気持ちがまた緊張し始めた。
”なんでオレひとりがこんな目に・・・”
黙って運転していると恐怖で気が狂いそうだ。
「おい、頼むよ!県道に出るまで起きててくれよ」
そう言ったものの友人は目を覚ます気配がしない。
まるで見えない力に眠らされているようなのだ。
私は恐怖から逃れようとラジオのスイッチを入れてみたものの
韓国語のような音が時たま聞こえてくるだけでどこの局も受信できない。
なんとか気持ちを落ち着けなくちゃと思って
ドアの収納ボックスにあるカセットテープを手にとって
デッキに差し込もうと一瞬フロントガラスから目をそらした。
その刹那「バリッ!」という
何かがフロントグリルにぶつかるような音がした。
「なに?いったいなんなんだ?」
慌ててクルマを停めたはいいけれど怖くて外に出られない。
私はたまらなくなって横で寝ている友人を強引に揺り起こした。
「えー、今度は何?県道に出た?」
「バカも休み休み言えよ!お前、よくこんな状況で寝てられるな。
今クルマになにかがぶつかったんだ。
こんなところでクルマからひとりで降りるなんてぜったいできない。
一緒に降りて確かめるの、手伝えよ」
私の必死の訴えに友人はことの重大さがやっとわかったようだった。
「かっ、懐中電灯はどこ?」
「コンソールボックスの下」
私と友人は同時にドアを開け外に出た。
周りはキーンと冷えていてタバコの煙のように吐く息が白い。
前を回って友人の持つ懐中電灯がフロントグリルを照らす。
「別にどうもなってないじゃん。
ブッシュかなにかが当たったんじゃねぇ」
「そうかぁ。ならよかった。
オレはまたとんでもなく恐ろしいものにぶつかったかと思ったよ」
そう言いながら車内に戻ろうとして何気なくクルマの後方を見ると
道になにかが落ちているのが目に入った。
テールランプの赤い光でかろうじて視認できたのだけれど
目を凝らしてもよく分からない。
「ちょっと、あれ、何だろう」そう言うと
友人は懐中電灯を私が指差す方に向けた。
その途端、私と友人は同時に悲鳴をあげた。
私たちはすぐさまクルマに戻ってドアを閉めロックをかけた。
「・・・今の、見た?あれ、能面だったよな。
オレがさっき見た鳥居の中に張り付いていたのと同じものだよ」と私。
「ああ。とりあえずクルマ、走らせようぜ」と友人の震える声。
それからどのくらい時間が経過したのかわからないけれど
かなり長い間私たちは黙ったままだった。
恐怖のあまりどのくらい時間が経過したのかわからない。
しばらくすると友人が窓の外を指差し
「あれ、なんだろう」と言った。
友人の指差す方を見てもほとんど真っ暗でよくわからない。
私はクルマを停めてもう一度見てみた。
何か樹の上にぼんやりした灰色の塊が見える。
そしてそれは風のせいか少しずつ形を変えているようだった。
「・・・おばあさん!・・・あれ、おばあさんに見えない?」
友人が上ずった声で私に告げる。
「見えるわけねぇじゃん。靄か何かだろ?
もうこれ以上脅かすのやめれくれよ」
私はそうであって欲しいという祈りの気持ちだけでそう答えた。
「ねぇ、クルマを走らせるよ。安全運転は心掛けるけど、
もう停まったりは絶対にしねぇからな」
私はそう友人に宣言しアクセルを踏んだ。
想像を絶する怖さのため私はそちらの方を決して振り向かず
黙って運転に集中した。
「あれ?いなくなっちゃったよ。でもお前も確認したよな?
オレたち同じものを見たよな?間違いないよな?」
「ああ、見たとも。だけどおばあさんだったかどうかまでは
正直わからなかった。怖すぎて凝視できなかったもん」
「いや、オレ、じっくり見たけど、あれ、やっぱりおばあさんだった。
正座していて割烹着を着ていて背中がまあるいんだ。
横を向いていたからどんな表情だったかはわからなかったけど、
あれ、おばあさんだった。間違いない」
「なんでおばあさんが樹の上にいるんだ?そんなわけねぇだろ!」
そう打ち消したものの私は半ばパニック状態になり
泣き出しそうになっていた。
なぜなら私がそう見えたものと友人が語ったものが
完全に一致したからだ。
「ヤッベー!」私は一刻も早くこの道を抜け出したかった。
けれど道は限りなく細く曲がりくねっているし、
所々でブッシュがクルマに当たるから
スピードを出すことはできなかった。
「ねぇ、オレたち、無事に家に帰れるのかなぁ。
なんだかこのままこの山から出られないような気がしてきたよ」
「まさか!」
「それより今オレがいちばん気がかりなのは
この道がこの先で行き止まりになってしまうんじゃないかってことさ。
もしそうなったらどうする?」
「どうするもこうするも、ここまで走ってきちゃった以上
どうにもならねぇじゃん。それとも今来た道をバックで戻るか?」
「いやー、なにもお前を責めて言っているんじゃないんだ。
気を悪くしたら謝るよ。だけどさぁ、いろいろなことが
考えられなくなっちゃってるんだ。オレ、マジで怖いよ」
「オレだって怖いよ。もしこのまま行き止まりだったら
そこで夜を明かすよりなにかいい方法はあるか?」
「たぶんそれがいちばんだね。どうする?
もう先に進まないでここで夜を明かす?
これ以上道幅が狭くなったらもうアウトだしさ」
「いや、この地図を信じて進んでみようよ。
行き止まりだったらオレがバックで戻る役を引き受けるよ。
だいいちこんなところに一晩いたら、オレ完全に気が狂うね」
「わかった。じゃあこのまま進むよ。
・・・ちょっと待って!今バックミラーに何か映った」
私の緊迫した声に反応し慌てて友人が後ろを振り返る。
「・・・速く!もっと速く走れ!追いつかれちゃうぞー!」
友人の声の引きつり具合が尋常じゃない。
私は言われるがままに可能な限りアクセルを踏む。
それと同時に道に飛び出しているブッシュが激しくクルマに当たる音がする。
「なに!いったいなにに追いつかれんだ?」私は叫ぶように友人に聞く。
「さっきのおばあさん、おばあさんが・・・・追いかけてくるんだ!」
「えーっ?」
私は怖すぎてバックミラーを凝視することができず、
友人が指示するままに夢中でクルマを走らせた。
どのくらい走ったか当時の記憶がそこだけないのだけれど
それが5分だったか30分だったか、
急に視界が開けステアリングが路面の凹凸を感じなくなった。
それと同時に私たちはやっとこの恐ろしい山道を抜け出したことを知った。
なにか目に見えないバリアを突き破って異次元から戻ったような感覚。
その道路はやはり街路灯はないものの少し道幅が広く舗装されていた。
でもそれは県道ではなく農道のような道だった。
私は怖くて見ることのできなかったバックミラーを恐る恐る覗いた。
そこには漆黒の闇が映っているだけだった。そして私は”助かった!”と思った。
しばらく走ると、黄色く点滅する信号機がある
さらに幅広い道路にぶつかった。
その道路が県道であることを示す標識も見つけた。
時計を見ると針は1時22分を指している。
県道は交通量が極端に少なくすれ違うクルマはトラックばかりだった。
「ねぇ、さっきおばあさんが追いかけてくるって言ってたよな?」
「ああ、ものすごく怖かった。
あれはあのとき樹の上にいたおばあさんだよ。
不思議なことにあのおばあさん、
オレたちを走って追いかけてきたんじゃない」
「えっ、どういうこと?」
「なんとも説明のしようがないんだけど、んー、
おばあさん、正座したままクルクル回りながら滑るように迫ってきた。
顔もはっきり見えたけどまったくの無表情だった。ただね・・・・」
「なんだよ、怖えーじゃん。先を続けろよ」
「おばあさんは左手に紫色の数珠、
右手に割れた能面を持っていた。
それが正面を向くたびに何度も浮かび上がってきたから
見間違いということは絶対にないね」
「マジかよ。オレ、見なくてよかった。
見えてたらたぶんその場で気絶していたね。
こんな怖い体験したの、オレ初めてだよ」
「うん。オレだって、初めてさ」
「恐い目って、お前、前半ほとんど寝ていたじゃん」
「そうかもしれないけれど、あのおばあさんを
見ただけで充分すぎるほど怖かった」
「静寂を破るようにクルマでズカズカ入って行ったから
たぶん山の神様の怒りに触れちゃったんじゃないかな」
「そうかもしれないな。こうなることがわかっていたら
こんな山道、絶対に入らなかったよな」
そんな会話をした後、大きな交差点で私たちのクルマは信号に引っかかった。
そのタイミングで友人と私は席を替わってそこから友人の運転になった。
しばらくクルマに揺られていると急に眠気が襲ってきた。
私は目をつむるとあの時の光景がまた思い出されそうで怖かったけれど、
知らない間に眠ってしまった。
目を覚ますとクルマは横浜新道を走っていた。
車窓から見える夜中の街並みをぼんやり眺めながら
あの恐ろしい山道の体験はなんだったんだろうかと考えを巡らせていた。
当然のことながらいくら考えても
はっきりとした答えに行き着くことはなかった。
それから20年以上経過した時、私はその友人に連絡を取って、
この体験を書き残しておきたいと打診してみた。
ところが友人は電話口の向こうから
「そんなことがあったっけ?書くのはオレは一向に構わないよ。
でも悪いけどオレ、なんにも覚えていないんだ」
という意外な返事が返ってきたため私はうろたえてしまった。
本当に覚えていないのか、話したくないのか、正直わからなかった。
でも私はあの恐ろしい体験を忘れることなんかできないはずと思っている。
あの時の細く真っ暗な山道、鮮やかな朱色をした鳥居、
懐中電灯に照らされた割れた能面、樹の上の靄のような灰色のおばあさん、
そして友人が目にしたというおばあさんが持っていた紫の数珠と能面・・・。
友人に連絡を取ってからさらに5年が経過した今でも、
あの時のことは鮮明に覚えているけれど人に話すことはなかった。
誰かを怖がらせたり脚色して面白おかしく語ったりすると
あのおばあさんが私の心の扉をノックするような気がしてくるのだ。
でも軽はずみな気持ちから神様の領域に入って行ってしまったことに対して
素直にお詫びをする目的でいつかどこかに書き残しておこうと思っていた。
25年という歳月はその準備期間だったような気がする。
書き残せたことで心のどこかでつかえていたものが取れたのかもしれない。
この世には軽はずみな気持ちで侵入してはならない
”神様の領域”というものがある。
私はそれを身をもって体験したひとり。
だけど選ばれたくなかったひとりだ。
※写真はネットから借用したものです。