”無心”論。
仮に汚れた心を洗い清められる
洗濯機が発明されたとしたら、
汚れた心の持ち主の何割かは買って
清らかな心を取り戻そうとするだろう。
ぼくは物干し台に干された
誰かの心が秋の風になびく光景を
ちょっと見てみたいと思う。
当然のことながら
物干し台に干されている間は
その人の身体には心がない。
つまり”無心”の状態ということだ。
あれっ?この無心という状態も
なかなか捨てたもんじゃないなと
そう気づく人も中にはいる気がする。
もう煩わしい心なんて要らないよ、と。
何日も干しっぱなしの心は干からび
粉を吹き干し柿のようになって
冬の寒空に寂しそうに揺れている。
無心の境地に到達した人というのは
洗濯機で心を清めた人ではなく
洗濯機に心を捨ててしまった人なのだろう。
心は煩悩とか欲望を作り出す。
それがなくなれば煩わしさから
解放されるという道理は理解できる。
ところで煩悩と欲望ってどう違う?
AIに尋ねてみると
煩悩は人を迷わせ苦しめる心の状態や
精神作用の総称であり、
欲望とは何かをしたい、
手に入れたいという欲求全般を指す。
つまり欲望が自らを苦しめる状態になった時
それが初めて煩悩に変化するのだと。
(自らを苦しめない欲望は
煩悩ではないのだろうか・・・難しい)
仏教において煩悩は一般的に
108種類あると言われているけれど
宗派や考え方によって数は異なるとのこと。
その中でも最も根源的な煩悩は6つ。
貪欲:欲しいものを求め執着する心。
瞋恚:怒りや憎しみ許せないといった感情。
愚痴:真実を知ろうとせず道理に暗い心。
疑:正しいことを疑う心。
見:誤った見解や考え方に執着する心。
慢:おごりたかぶった心。
だけどいくら心を洗う洗濯機が
発明されたからといって
そう簡単には心を身体の中から
取り出すことはできない。
心を洗う洗濯機が発明される前に
心を取り出すトングでも発明されなければ
心を洗う洗濯機は売れないということだ。
こんなこと、煩悩まみれのぼくが書いても
まったく説得力がないなぁ。
※写真は朝7時を過ぎた蒔田公園。
いつもなら散歩から帰るような時間。
大幅に寝坊してしまったぼくを
フレディは許してくれました(涙)。
仏心を持った犬。今朝はそう感じました。
※ずっとGoo Blogから遠ざかっていたら
コメントを頂けたことに今気づきました。
本当にごめんなさい。