”心”についてのメモ。
感じる、思う、考える。
このプロセスの中から心は作られていく・・・
そんなふうに仮定してみる。
見る、聞く、嗅ぐ、触れる、味わう。
これら五感の窓をすべて閉ざしてしまうと
当然のことながら感じることはなくなる。
感じることがなくなると
思うことも考えることもなくなる。
もしあるとするなら
それは過去の記憶という地層から
感じたことを掘り起こして
思ったり考えているに過ぎない。
それではまだ起こっていない未来のことを
感じることはできるのだろうか?
“予兆”とか”予感”という言葉はあるけれど、
それは過去から現在までの間に
起こっている記憶の中から未来の展開を
類推したり想像することにほかならない。
類推も想像も考えることの仲間だろう。
心というと真心とか親心とか恋心とか
わりと美しいものを想像しがちだけれど
猜疑心とか虚栄心とか敵愾心とか
そうでもない方のイメージも持っている。
扱いには注意したほうが良さそうだ。
もしも心もほかの臓器と同じように
カタチあるものだったら
科学的、もしくは医学的なアプローチが
かなりしやすくなるに違いない。
昔は、心は心臓にあると考えられていた。
感情の昂りに連動して鼓動が早くなるから
そう言われてみればなるほどと思う。
西洋思想における心という概念は
物的世界と対比させた心的世界を指し、
広く”意識”をも含んだものになる。
その”意識”についてウィキペディアに
とても興味深い見解が載っている。
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ケンブリッジ大学の数学者ロジャー・ペンローズと
アリゾナ大学のスチュワート・ハメロフは、
意識は何らかの量子過程から生じてくると推測している。
脳で生まれる意識は宇宙世界で生まれる素粒子より
小さい物質であり、重力、空間、時間にとらわれない
性質をもつため、通常は脳に納まっているが、
体験者の心臓が止まると意識は脳から出て拡散する。
そして体験者が蘇生した場合は意識は脳に戻り、
蘇生しなければ宇宙に放出されたままとなるか
別の生命体と結びついて生まれ変わるかも知れない”
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こうした概念は”意識”というより”魂”に近い気もする。
”心”も、この”魂”も、理解してるようで
本当はかなり曖昧模糊としている。
心が揺さぶられる、とか、魂に訴えかける、とか
言っていることは理解できるのだけれど、
これって”感激する”の最上級表現なのだろう。
もっと深掘りしてみたくなるテーマだ。
※写真の花はガクアジサイ・・・なのかな?
紫陽花にしてはずいぶん早咲きのような気もしますが
雨にしっとり濡れた感じが素敵です。