対立からの脱却。
ブリトン人が暮らすグレートブリテン島のある村で
奇妙な現象が起こっている。
その現象というのは、病のせいでも老化のせいでもなく、
原因のわからないまま村人たちひとりひとりが
自らの記憶をことごとく失っていくというもの。
そのため村人たちの間では
会話が食い違うといったことが頻繁に起こり
人々は言い知れない不安を感じる。
しかしながら一方では記憶をなくすことで
過去の忌まわしい出来事や辛く悲しい記憶も忘れられるので
村人にとっては都合のいいこととも感じている。
現にそれによって束の間の平和が訪れているわけだから。
そのうちこの現象は村全体を覆う”奇妙な霧”のせいで、
その霧はどうやら山に棲む雌竜の
吐く息なのではないかと
思い至るようになる。
ブリテン島は先住民族のブリトン人と
大陸からやってきたサクソン人(アングロサクソン)が
異なった文化を持ちながら隣り合わせになって暮らす島。
その過去に起こった忌まわしい民族対立による戦禍が
両民族にもたらした憎しみを断ち切るために、
このブリテン島を統治する今は亡きアーサー王が
つかわしたのが雌竜だったのかも知れない。
この物語にはアクセルとベアトリスという老夫婦が登場する。
この老夫婦も一時的に過去の記憶を喪失し、
その不安から逃れ本当の過去を取り戻し、
遠く離れて暮らす息子に会うための長旅をする。
本筋はこの老夫婦に光が当てられているのだけれど、
要所要所で根深い民族間の諍いが織り込まれていて、
読み進むほどに惹き込まれていった。
大雑把に書くと上記のようになるのかも知れない。
カズオ・イシグロはイギリスがEU離脱と決まった時、
言い知れぬ怒りを感じていたらしい。
自身、5歳の時に日本(長崎)から受け入れてもらって
親切に接してくれたイギリスに感謝の気持ちを
ずっと忘れずに持っていると語っている。
そんな下敷きがカズオ・イシグロの心にあるからこそ
この物語は生まれたのではないだろうか。
過去から続く憎しみの連鎖を断ち切ることは
とても難しいような気がする。
でもひとつだけ今のぼくたちにも確実にできることは
新たな憎しみの種を撒かないということなのではないか。
この小説を読み終えた昨日は長崎に原爆が落とされた日。
今の日本には雌竜がいないことをありがたく感じ、
いて欲しいと思うことがないことを祈っている。
タイトル:忘れられた巨人
著者:カズオ・イシグロ